昭和五十七年三月十七日 朝の御理解
御理解第二十節
此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。
昨日東京からと云うて、三人の御参拝がありました。丁度私は昼、出る前でしたから竹内先生がお話をした。その後にここへみえられまして、段々お話を頂かれて、もうそれこそびっくりしてお話を聞いておられました。というのは、信心と言うのはやっぱり難しいもの、険しいものというその観念でおりましたが、合楽で云われる信心はもう有り難くて楽しいものだと。しかも段々おかげ頂いてくるとこうリズムが感じられるようになるから、もうリズムに乗ってその信心だから、愉快になる、楽しゅうなるんだと。という話をま、いろいろな、私昨日は何かえらい念を入れてお話をさせていただきましたから、丁度先生方、三時の研修時間までお話を致しておりました。
もう金光教の信心が、本当に、そんなに楽しゅう、もうその喜ばしい心で信心がでけるということは、ま、ま云うならば、自分たちの我情我欲を満たす事の為の信心でなくて、神様の願いが聞かれる、神様の願いに答えられる、という信心にならなければならないといったような事を、芯にしてお話を致して、御りゃやっぱ、どんなに素晴らしいお話もですね、それにひとつのころ、実証というものがありますと非常にそのお話を聞く気になるし、芯からこう入っていくような感じがしますね。
昨日行橋の支部長が、品の良い老夫婦の方をお導きして参りました。というのは、最近行橋で大変人が助かるというので、それをもうそれこそ、尋ね求めして、ま見えられた夫婦です。というのはそこひで段々もう目が見えない寸前にあるご主人が、ほいで、ま、尋ね求めして見えたから、ま、そこで堀内先生、そんならね、私の、ここの本部であります合楽教会にあのう、ご案内しますから一緒にお参りしましょうと云うて、参ってきたね。
それも私丁度昼出る前でしたから、しばらく先生方のお話を頂いて、ま、ここへ御礼に出て見えますときには、もう感動いっぱいで御礼を云われるんです。というのはここへきてからね、そのいろんなものが見えるようになった、ち云うんです。もうそれが有り難う、そりゃ有り難いでしょうね、もう感動いっぱいで御礼のお届けのあったその後に、東京の方達が見えました。
まあだそこで御理解頂いておられましたから、あそこに参って来とる老夫婦の方達はね、今日はいわば参ってきて、まあだ私がお取次もしない前にね、ここへ参ってきて、あのうまあ、それがどう云うことかと云うと、ある教会でま、熱心に信心をしとった方達だったそうです。ここへ着いた途端にこう感動が湧いてきた。というのはまあ熱心に御本部にも参拝される方達らしいですが、御本部出参拝しても頂けなかった感動がおこったとこう云うのです。
だからそのお届けをそのまま東京の方達に話したから、それこそ、目を見張らんばかりにして、まあ私の話がよくはいっていった。よく入るからもう限りないお話がもうま、でたわけでもありましょうね。わざわざ東京からお参りしてきておるから、やっぱなにか頂かにゃという気持ちでしょうから、その方達が真云うように、合楽のお話を頂いておって、信心というものがね、そういうそれこそ嬉しゅう楽しゅう愉快に迄なっていけれるような手だてのあるというようなこと、今までかって聞いたことがなかった、金光教でもね。
と云うて私は昨日石田先生のハガキの内容のことをね、本当にまあ、大変厳しい修行をする宗教なんかも、ヨーロッパの方で研修なさったわけですね、先生も。そしてもうそりゃ教えの研修とか修行とか、もう大変な修行に取り組んでおるのが、その先生達というのがね、とにかく自分が助かる事の出来ない、救われない悩みをいっぱい持っておる、という話を聞いて、まあそれこそ哀れなる仮名ということになったわけです。本当に合楽で御神縁を頂いて、合楽の御教えを頂いておる自分達が幸福をいよいよま、石田先生、感じられたことでしょう。
そして云っておられるのに、教師ですね、いわゆる教師が間違えたら大変な事になると書いてありました。石田先生のハガキの中にね、金光教の信心がこんなに嬉しゅう楽しゅう出来るということをです。ならその方もま、東京のある教会でね、信心とはま、険しいもの、厳しいものというイメージですかね、ですからその結局合楽に見えてそのイメージアップがでけて、どうぞこういう楽しゅう愉快におかげの頂けれる信心が、頂いていけれる手だてがあるんだと云うことを、東京に帰られたら、あなた方がひとつ拡声器代わりになって、皆にお話を進めて下さいと云うて、まあもうしました事ですね。
いわゆるその、お話を頂く前に、今の合楽でも御比礼の一端をね、聞いておられただけでなくて、見ておられただけでなくて、そこに今助かった人があったから、尚あー大変な本当に表行を止められ、ま丁度八年にまあなりますそうです。ここで表行全廃といいった。
で、丁度先生方も丁度時間になりましたから、いっぱい集まって来ました。だからここの先生方も合楽で、例えば水をかぶったり、断食をしたりと云ったような表行やらをする修行生はもう私が破門だというくらいにそのまま、表行をさせませんがね。私の方で表行をしない、心行ひとつにする、ということを言い出して合楽の信心、信者の数は倍増していっておるです。こうやっておそらく安濃、大会の時のあれを見られたの、正教さんあげたの。出しとるでしょ、あのずーと倍増しておって、グラフ用紙にというようにね。
例えばそういう修行を辞めたから、比礼が落ちた、でなくていうならば金光大神の教えを聞いたからです。そしてそれを即刻実行に移したから、実行に移した時点から、合楽の御比礼が倍増して云っておるという事実をね、私話したんですけれどもね、教祖様が云われる本当に、「表行より心行をせよ」といわれる心行一本。
いうなら教祖様の云うことを聞いたわけね、だからここんところの御教えは信心を頂いておっても、云うことをきかん子は仕方がないです。こんなに神様に歯がゆい思いをさせる事はなかろうと思うんですね。
しかもそれが断食したり、ち、いうなら水かぶったりち云うなら、そりゃもう大変苦しいこと、辛いことなんです。
そういう事じゃない、人間が人間らしゅう生きる手だてが合楽理念に縦横無尽にといてある。それを稽古するという気になるから楽しゅうなるのだ、有り難くなるのだ。実験実証が出来るから、いよいよ有り難くなるのだということを、ま、東京の方達に聞いて頂いたんですけれども、皆さんとても同じ事。合楽で日々こうやって御理解を頂かれるのですから頂いて、あっ!今日の御理解はここだな頂きどころはと感じたら、それをもう即刻実験に移していかなければね、云うことをきかん子になるのですよね。そしてんなら、云うことをきかん子は仕方がないと神様を悲しませるような事になるのです。
だから云うことを聞くことが有り難くなるのであり、楽しゅうなるのである。実験するのですからそこに実証が生まれてくるのですね。それにはなら、皆さんの場合なんか、まの当たりに合楽の御比礼に触れておられる、おかげ受けておる事実を見ていかれるね。それこそなら、東京の方達がですね。ほんのまの当たりにその、云うならば目のいよいよ見えないという寸前の人が見えるようになったと、云う働きそこに、見たり、聞いたりして、ハハァ、成る程、合楽理念をということについて、まあ深く感心を持たれた事であろうと思うね。
とりわけいわゆる金光教でも過去百年の信心とはやはり険しいもの。もうやっぱり断食をしたり、水をかぶったりする人やら先生方があると、ハァあの人は熱心な信者と先生とまあ云うて来たんですね。所がそういう事じゃない。
金光教の信心はもうどこまでも家業の行、又は心行にしぼる以外ない。そこでです、ならお互いがその心行にどれ程しぼってかと云うことです。もうここではいろんな行をせんのですから、本気で心行に取り組まな駄目です。本気で家業の行、そのものを家業の行として頂かな駄目です。
今日も結構な修行をさせてもろうて、有り難かったと御礼の云えるような家業じゃなからにゃ駄目です。ハァきつかったきつかったじゃ終わるような事じゃでけんです。そりゃ苦しいこともあったろうけれども、その苦しいことのその修行として受ける生き方以外ないです。金光教の信心は例えばです、どう云うことが起こっても、心行ひとつと云われるのですから、本気でその心行に取り組んでおったらですね、問題は起こらないです。問題が起こるなら、あなたが心行しとらんからと言われ仕方がないですね。
例えばここで云われる一切が神愛。自分の身にそれは分かっていなくても、お話を聞いとるから、一切神愛一切神愛と言い続けないかんです。心の中でね、だからどういう苦しい事があってもなら、それを一切神愛として頂いたら、もうその場で問題はなくなるです。
その手だてがなら、ここは黙って治めるんだな、ここは天の心、地の心じゃな、と言うふうに具体的に説いてあるんです。だから本当に、心行に取り組んでおったらですね、問題はないです。御礼を申し上げる事ばっかりなんです。そういう心の状態が開けないならば、まあだ、自分の心行がまあだ、本当のものじゃない、と思うて、本気で言うならば、心行を心がけなければいけません。
もう心にかけ続けとかなきゃいけません。心行はね、家業の行です。本当に今、合楽では、暗いイメージを持つ宗教は、まあどう言うことかと言うと、陰惨な迄の、ね、修行が伴うておったという事なんです。何かそういう事ができぬいた人が何か、宗教者として偉い人のように云うてきたことなんです。そうじゃないです。
もう教祖金光大神の言われる、もうそれこそ、水をかぶったり、断食したりするのは、金光大神は大嫌いじゃとおっしゃってるような、そこんところを素直に聞いてです、ね、教祖が言われるね、楽じゃと言うのじゃなくてね、心行です。取り組まないかんです。心行に。
心行に取り組んどったら、腹の立つことも、情のないと思うような事もなくなるです。ね。それを心行で受けるのですから、はあ、ここは黙って治める修行さしてもらっとる、とおもうからね、しかも合楽の場合は、心行ひとつになれば、こういうおかげが受けられると言うのを、日々皆さんがまの当たりに見とられるわけです。
グラフ用紙に表れてくるように、そういう修行が言うなら、神の云うことを素直に聞いた時点から、合楽の云うならば御比礼が倍増していってると云う事実を皆さんが、ただ見たり、聞いたりしとるだけじゃできん。自分の上にも、そういう倍増のおかげになっていくような、ね、もう教えを本気で聞く、と言うことなんです。云うことを聞かん子はとおっしゃる。云うことを聞くということなんです。
自分の今まで持っておる、いろんな知識とか、知恵とか、観念とかふりすててね、それに私取り組む以外にはない。でなかったら、やはり、金光大神の教えにありますように、云うことを聞かぬ子は、親でも仕方がないね。金光大神は表行を嫌いと言われる。けれどもやはり、やむにやまれん心で表行をしなければ、と云ったような事を云っておる先生方がたくさんあります。私もそうでした。
そう云うことを云っておられるのを、神様がもし聞かれたら、本当に、云うことを聞かんもんばっかりは仕方がないと思いなさるじゃ中かと思うですね。分からんもんばっかりは仕方がないなあ、時節を待って分かったら、いっちょおかげを受けてくれということに、まあなるわけですけれども、合楽の場合はこのようにね、実証を示しながらして、皆さんに聞いてくれと云ってるのですから、皆さんが聞かなかったら、聞き手はないね。
それを実際に生活の上に頂いて、それこそ倍増的なね、おかげになっていく、日勝り、月勝り、年勝り、のねひとつおかげを頂けるためには、聞かにゃいかんです。実行しなきゃ駄目ですね。
昨日の東京の方がもうしましたように、もう本当に金光教の信心がこんなに素晴らしいと云うことを初めて聞いたと。だから初めて聞いたと言う実感を、どうぞ東京地方の皆さんにも、皆さんが拡声器の代わりになってね、話をして云って下さい、というって、まあ、申しました事でしたけれども、皆さんとても、そういうおかげを頂いて、そのおかげの実際を示しながら頂いとる教えを、云うならいよいよ周辺にも、広めていこうと云うようなおかげを頂かなければんらんと思うです。ね。
お取次を頂いて、御願いして、おかげを頂く事だけが、金光教の信心のように思うておった鹿児島の佐田さんが、合楽に来た途端に、合楽ではそうではない。神様の願いを教えて頂く。神様の願いに答えられるのが、合楽の信心だという風に、まあ極限しておられましたように、確かにそうなんです。
ですから、皆さんがおかげを受けておかげのその実証を示しながらね、云うなら間違った信心、間違った修行と云うことを皆さんがね、広げていく、と言うことはね、神様の願いにも又なるのじゃないでしょうかね。 どうぞ